木曽檜の名が世に知られるようになったのは、伊勢神宮の遷宮用材の産地に選ばれた14世紀中ごろからです。
木曽からの木材の搬出は鎌倉時代から始まりました。その後、豊臣秀吉の時代以降、日本各地のお城・神社仏閣など幾多の建造物の用材として使われましたが、大規模な伐り出しが始まったのは江戸初期からです。記録によれば、万治元年(1658年)から寛文元年(1661年)までの4年間に、名古屋・熱田の白鳥貯木場に運ばれた丸太は254万本に達したそうです。
木曽を直轄領とした徳川幕府は尾張藩にその管理をさせました。
当時は次々と木材生産の命令が出され、全山の80%に当たる良木の強度伐採が100年にわたって続きました。その頃の伐採跡に植林を行う考えが無く、明るくなった地表に檜が自然更新しました。一方で、過剰伐採による資源枯渇の危機感が生じ、尾張藩は寛文5(1665)年に巣山・留山制度を設けました。さらに、宝永5(1707)年には、ヒノキ・サワラ・コウヤマキ・アスナロの四木、その後ネズコを追加して五木について、御用材以外の伐採を禁止しました。「木一本首一つ」といわれる厳しい保護政策が行われ、盗伐、背伐などを犯した者は厳罰に処せられました。尾張藩は、このように厳しい管理体制を敷きましたが、一方で財政ひっ迫のため伐採を広げることも行っていました。
【木曽の五木】
※巣山・留山制度
「巣山」とは鷹狩りの鷹を保護する名目で特定の山林への民衆の立ち入りを禁止したもの。「留山」は、優良な樹木のある山林を指定して、立ち入り・伐採を禁止するもの。
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